ある日、siestaのもとに1通の手紙が届きました。
熱帯の国、インドネシアから。
前回のスペイン出身のライターに続いて、今回は2回目となる海外ライターとのコラボレーション。ジャカルタ在住のフード&ライフスタイル・ライター、シャリマ・ウマヤを迎えます。
彼女から連絡をもらい、まずは食についてのシンプルな会話からスタートしました。テーマを提案し、siestaの気になることに彼女が自由なスタイルで答えていく。そんな風にゆっくりとやりとりを重ねるうちに、彼女の記憶、親しみ、そして距離を超えた文化を編み込んだ記事を作りました。
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Written by Sharima Umaya
Edit and Japanese translation by Natsuko
それは23年前のこと。まだ小さな女の子だった私は、人で溢れる東京の道をふらふらと歩いていた。家族の背中を追いかけながら、六本木のゲームセンターに入っていく。ゲーム機が放つ光に、人々の笑い声や電子BGMが重なり合い、自分の周りをとりまく世界が現実よりも少し鮮やかに見えた。日本のアニメを見て育った私にとって、東京はまるでアニメを実写化したような、夢の国のような場所だった。
でも、私と日本との関係は、この家族旅行が始まりだったというわけではない。私が生まれるずっと前から、東京はすでに我が家のストーリーの一部になっていたのだ。

1970年代の東京のキッチンと母
実は、私の母は1970年代に10年ほど東京に住んでいて、インドネシアに住む父も東京をよく訪れていた。彼は仕事をする傍ら、インドネシアの全国大会で金メダルを獲得するほどの空手家でもあったから。こうして振り返ると、私が日本に抱く親しみやすさは、後から追加して取り入れたというより、家族から受け継いだもののようにも感じる。
ジャカルタで育つと、日本の文化はそんなに遠い存在ではない。日本のアニメは多くのテレビチャンネルで放送されているし、父は東京出張に出かけるたびにポケモンやサンリオの文房具をおみやげとして買ってきてくれた。そんな家庭で育ったからか、日本の寿司とすき焼きが子ども時代の私のお気に入りメニューだった。

握り寿司と最初に出会ったのは、日本ではなく、ジャカルタ。イッパチ(Ippachi)という名前のレストランだった。日本の料理はインドネシアのそれとはまったく違うものだったが、子ども時代の私に戸惑いはなく、好奇心でいっぱい。普段は滅多に食べない生魚の食感と味を理解しようと子どもながらにつとめた。
この、子ども時代の日本に対する好奇心が、大人になった今も続いている。

そして現在、私は食とライフスタイルについて書き綴るライターになった。インドネシアの首都・ジャカルタに住む私は、非常に多くのレストランに囲まれて暮らしている。
* ジャカルタは、東京23区を少し上回る広さのなかに、約1100万人の人口がひしめく大都市。都心よりも人口は多い。
もともと外食好きな私は、会社勤めの傍ら、日本でいう食べログのようなサイト、Zomato、Foody.id、Qravedに2015年ごろから短いレビューを投稿するようになった。

なんとなく始めた投稿だったが、「食」と「物書き」との関係が次第に深くなっていった。そして4年後の2019年、ついに食文化に特化したメディア、Top Tables(のちのFeastin.id)にライターとして記事を寄稿するようになる。「食べるという行為」だけでなく、その背景にあるストーリーも語りたくなったのだ。
こうした「自分らしさ」に気づいた私は、2024年、ついに会社勤めを完全に辞めることにした。食べることと書くことを続けて見つけた、ライターの道に進むため。ただ、そこで気づいたこともある。インドネシアの食に関する記事は、単なる「味覚」の話で終わっているものも多いこと。何が良くて、どれを試す価値があるかとか。でも、ライターとしての取材を終えるごとに、私の心に残っていたのは、決して食事そのものだけではなかった。料理の背景にいる人々のことや、「ひとつのことを実直に、何度も、気の遠くなるような時間をかけてやり遂げること」に注ぐ、狂気とも言えるほどのこだわりと情熱が心に残っていた。

そして父との思い出 ー 色々なレストランに何度も連れていってくれたこと ー も私の中にいつまでも残っている。これらは私の思い出の軸となっていて、一緒に行った数々の場所の詳細を忘れてしまうのが少し怖くなった。日本食レストランは、私たちが本当によく訪れた場所。そういった意味で、私が日本料理への関心を深めていったのは、自分がずっと探し求めていたものの自然な延長線上にあることのように感じる。

インドネシアと日本には共通点もある。職人技への深いリスペクトだ。インドネシアには、伝統的な調理方法、代々受け継がれていくレシピ、そしてたった一皿の料理を完成させるまでに求められる「忍耐強い工程」がある。

日本では、この精神は職人気質とも言われ、まるで瞑想のような細部へのこだわりとして現れている。

去年の夏に訪れた気仙沼でも、この精神を目にした。

気仙沼(宮城)
私は気仙沼で何人かの作り手に会った。その中のひとり、牡蠣漁師のタケシさんは、ぷっくりと肉厚で最高の牡蠣を育てることに人生を捧げている。彼が作るふっくらして甘い牡蠣。人生でこんなに美味しい牡蠣を初めて食べた。

私はよく、夫に日本風のお弁当を作っているのだけれど、弁当箱に詰めるための小さく異なるおかずを作るのには忍耐が必要だと感じる。
他にも、副菜の漬物とか味噌や塩味の焼き魚を作る時。2日ほど寝かせておくと味に深みがでるので、待つ価値はある。インドネシア料理として有名なルンダン(Rendang)もまた、似たような忍耐を要する。何時間もかけてじっくりと煮込むこの料理は、その過程でココナッツミルクとスパイスの水分が徐々に飛んでいき、肉にその旨みがぎゅっと凝縮して染み込んで、食感と味わいの両方が飛躍する。

日本ではあまり知られていないかもしれないが、日本料理は、ずいぶん前からインドネシアの都市生活に深く根付いている。
屋台風の手頃でカジュアルなものから、日本から直送された高級食材を使う料理人のおまかせまで、さまざまな日本料理の選択肢がここにはあって、所得層や文化的背景を問わず、さまざまな人々に親しまれている。今年初めに、日本政府観光局や国際交流基金の方々とお話しする機会があったのだが、インドネシアの人々がこんなにも日本の食について知識が豊富で、深い興味を示していることに、彼らはとても驚いていた。

一期一会(Ichigo Ichie):日本の思想に関する本も増えている
同時に、他の多くの国々と同様に、インドネシアはトレンドにも敏感だ。最近の抹茶ブームも、そのわかりやすい例。この2年間で、より手頃なブランドから産地や品質にこだわった高級路線のものまで、抹茶ブランドは一気に増えた。
これは、抹茶に対する興味と関心がインドネシアでも広がっていることを意味している。一方で、どんな深さで理解されているのかという疑問も浮かぶ。多くの場合、抹茶は文化の入り口というより、ライフスタイルの一部として、あるいはその緑色で写真映えするビジュアルが「センスを示す視覚的な記号」となって消費されている。

しかし、抹茶の鮮やかな緑色や独特な苦みの背景には、栽培、製法、そして茶道のような儀式的な意味などの長い歴史やストーリーがある。抹茶の魅力を本当の意味で味わうには、ただ飲むだけでなく「意識を向けること」が必要不可欠なのだ。
こうした文化的かつ職人的な背景が、私が育った背景ともつながり、どこか懐かしさにも似た感覚を覚えて、私はさらに日本料理に引き込まれていく。日本料理を「遠い異国のもの」と私が思えなかった理由がここにあるのかもしれない。
このように日本料理には、インドネシアで暮らす私にも馴染みの深い、数々の感覚が映し出されている。それは単に私が育った道のりを示すだけでなく、フードライターという仕事を通して培った私の視点でもある。それは、作られる工程を尊重すること、そして職人技には意味があると信じること。
私と日本とのつながりが、家族との思い出や幼い頃の体験を通して築かれてきたものだとするなら、これからも日本料理を食べるたびに、その料理が連れてくる新しいストーリーに耳を傾け、私との関係がさらに深くなっていくのだと思う。

Sharimaにとって食事は家族との思い出と、作り手たちのストーリー
日本料理がもつ表面的な繊細さや美しさ以上に、私がもっとも心打たれるのは、その根底にある哲学。季節の移ろいに合わせて、食材が最も輝く「旬」の瞬間を選び、何をどう調理するかを導きだすこと。無理に手を加えたり、やりすぎない。このアプローチには、ある種の自信のようなものを感じる。

旬を迎えた鮭のほのかな甘みや、しっかり熟したメロンの現実離れした深い味わい。日本料理が伝えるこうした瞬間が私たちに気づかせてくれる。本当に素晴らしい食事というものは、複雑である必要はなく、ただ「その本来の姿」を理解されることを求めているのだということを。

Sharima Umaya @sharimaumaya
Special thanks to Rachel from @kikkaya.wagashi
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